土佐勤王党がいれば、明治維新で土佐藩はもっと活躍していた!?

尊皇攘夷論と積極的な行動で倒幕をリードしていったのは長州藩ですが、土佐藩も忘れてはいけない藩の一つです。

黒船来航後、土佐藩の中でも尊皇攘夷論は盛り上がります。
その中で、頭角を現してきたのが武市半平太(武市瑞山)です。
武市は江戸へ留学し三代道場の一つである士学館に入門し免許皆伝、さらには塾頭となります。

江戸には諸藩の志士たちが集まっています。
また、桜田門外の変などもこの時期に起こっています。
武市は諸藩の志士たちと交流し、土佐藩の尊皇攘夷の考えがかなり遅れていることを痛感します。

武市は、江戸で長州藩の久坂玄瑞を慕い、久坂の師である吉田松陰の「草莽崛起」に感銘を受けたと言われています。

takechi

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土佐勤王党を結成

武市は土佐勤王党を結成し、土佐藩へ戻りさらに仲間を増やしていきます。
坂本龍馬が土佐における筆頭加盟者となり、間崎哲馬・平井収二郎・中岡慎太郎・吉村虎太郎・岡田以蔵ら192人が加盟しました。

加盟者の大半は郷士らの下級武士らで構成されており、上士は2人しかいませんでした。

土佐は差別の激しい藩

土佐は戦国時代には長宗我部氏が治めていましたが、関ヶ原の戦い以降は山内氏が治めるようになりました。

山内氏や山内家の家臣の血を引くものは、上士としてもてはやされました。
一方、長宗我部とその家臣の血を引くものは、郷士と呼ばれ武士でありながらひどい差別を受けました。

当時の土佐藩は、上士以外の人間はどれだけ優秀であろうと評価されません。
土佐勤王党がどれだけ尊皇攘夷論を唱えようと、彼らのほとんどは郷士です。
相手にもされなかったのです。

土佐藩の中枢吉田東洋の暗殺

どれだけ熱く意見を唱えても、土佐藩には相手にされません。

武市は禁断の手を使います。
土佐藩の権力を握っていた吉田東洋を暗殺するのです。

これにより武市は土佐藩の政治の表舞台に立つことに成功します。

これに味をしめた武市は、その後京へのぼってからも過激な行動を繰り返します。
土佐勤王党は尊皇攘夷のためならと、暗殺を繰り返すのです。

八月十八日の政変

そんな中、八月十八日の政変が起こります。
幕府の政治の舞台から尊皇攘夷派が一掃されるのです。

過激な尊皇攘夷派だった土佐勤王党も、もちろん厳しい立場に立たされます。
土佐藩内の権力図も当然変わってきます。

土佐勤王党メンバーの投獄

土佐藩の前藩主山内容堂は吉田東洋をかわいがっていました。
また郷士らの下級武士らが、好き勝手に振る舞う様を良く思っていませんでした。

暗殺などの過激な行動を繰り返した土佐勤王党です。
今度は、自分達に返ってくるばんです。
土佐勤王党のすべての党員に帰藩命令が出され、帰ってきたものは投獄されます。
土佐へ帰らぬ党員たちは、脱藩をしました。

吉田東洋の暗殺の罪を認めさせようと、土佐勤王党の党員は連日拷問を受けます。
皆が耐えるなか、岡田以蔵がこれをはき「ジ・エンド」となります。

武市半平太の切腹をはじめ、多くの土佐藩勤王党の党員が命を落としました。

自分で自分の首を絞めた土佐藩

下級武士らの粛清をした土佐藩ですが、これは土佐藩の優秀な人材を自分達の手で葬ったことになります。
藩の内部で抗争を続けた結果、土佐藩は自分の首を絞めたのです。

その後、倒幕、明治維新へと続いていきますが、土佐藩は人材不足で薩長に比べ政治の表舞台にたつことができませんでした。
もし、藩内で争いごとが起きず力を合わせることができていたのならば、土佐藩はまた違った道を歩くことができたのかもしれませんね。

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