・久坂玄瑞の基本情報
生年:天保11年(1840年)5月
没年:元治元年7月19日(1864年8月20日)
享年:24歳
藩:長州藩

2015年の大河ドラマ「花燃ゆ」では、東出昌大さんが演じていますね。
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多くの幕末の志士が死を惜しんだ逸材

久坂玄瑞の一生は約25年と、とても短いものでした。
しかし、桂小五郎、西郷隆盛、大久保利通などが口をそろえて「久坂玄瑞が生きていれば」と言ったそうです。

それだけ、久坂の影響力と久坂の起こした倒幕へのきっかけは大きかったのでしょう。

藩医の三男として生まれる

久坂は萩藩医・久坂良迪、富子の三男・秀三郎として生まれました。
小さいころから彼は学問にはげみましたが、彼の周りには不幸が続きます。
彼の父も母も兄も亡くなってしまい、15歳のときには家族は彼ひとりになってしまいます。

家族を失った彼は藩医久坂家を引き継ぎ、名を玄瑞と改めます。
大人になった彼は、身長は180cmほどもあり、美声であったと伝えられています。

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吉田松陰との出会い

玄瑞は1856年九州に遊学します。
その際、熊本で宮部鼎蔵に吉田松陰のもとで学ぶことを勧められます。
吉田松陰の名前は広く知れ渡っていたのですね。

久坂は萩に帰ると松陰に「これからの日本についての考え」を述べた手紙を書きます。
松陰は久坂の心に火をつけようと、敢えて酷評した手紙を返したといいます。
こういう手紙のやりとりがいくつかあった後、玄瑞は1857年の春に「松下村塾」へ弟子入りします。

松陰は久坂を「長州第一の俊才だ」と褒めたそうです。
久坂の才能をかっていた松陰は、自らの妹である文を久坂に嫁がせています。
※大河ドラマ「花燃ゆ」で文を井上真央さんが演じています。

また、松下村塾内で久坂は
高杉晋作と共に「村塾の双璧」
・高杉・吉田稔麿・入江九一と共に「松門四天王」
と言われました。

尊王攘夷運動の中心へ

1859年10月「安政の大獄」によって松陰が処刑されると、長州藩内の尊王攘夷派の動きは活発化します。
揺るぎない志と情熱を持った久坂は、尊王攘夷派の中心人物となります。

坂本龍馬、薩摩の西郷隆盛、土佐の吉村寅太郎、久留米、筑前の志士たちとも謀議を重ねたと言われています。

彼は真っ直ぐな性格ゆえに、行動も一直線でした。
江戸での「英国公使館焼き討ち」にも、下関での「外国艦船砲撃事件」にも先頭に彼の姿がありました。

八月十八日の政変

積極的に攘夷の行動を起こした長州藩ですが、幕府はこの独断を良しとしませんでした。
会津、薩摩、中川宮朝彦親王ら公武合体派公卿らと共に、長州藩を中心とする尊王攘夷派を抑えにかかったのです。
これにより長州派の公卿は更迭され、長州藩は京都から一掃されてしまいます。
※いわゆる「八月十八日の政変」です。

これには孝明天皇の「攘夷は賛成だが、倒幕は反対」という考えがあったそうです。

さらに追い打ちをかけるように「池田屋事件」が起こります。
新撰組により、長州をはじめとする多くの攘夷派の志士たちが命を落としました。

「禁門の変(蛤御門の変)」で自害

攘夷派の長州藩はこれに激怒し、力づくで京都を奪還しようとします。

京で戦をすることには慎重派の久坂でしたが、来島又兵衛や最年長で参謀格の真木和泉らの意見が通り進撃が決定します。
そして京都御所へせまる長州軍と、幕府軍・会津藩・薩摩藩との戦いが始まります。

兵力の差が歴然であったため、長州藩のこの戦いは失敗に終わります。
懸命に戦った久坂でしたが、鉄砲に打たれ最後は兵火の中で自刃してしまいます。

彼自身では幕府を動かすことはできませんでした。
しかし彼の思いを受け継いで、のちに倒幕、明治維新へと時代が進んでいくことは言うまでもありません。

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