江戸時代に鎖国を貫いてきた江戸幕府ですが、オランダとは交易がありました。

「ペリー来航」「黒船来航」
と言うと、民衆が戸惑い慌てふためいた印象があります。
少なからず混乱が起きたことは間違いないでしょう。

しかし、実は幕府は事前にペリーが日本へやってくる情報を得ていたのです。

perry

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幕府は黒船に関して細かい情報まで把握

1852年7月21日、オランダから長崎奉行に「別段風説書」が提出されました。
そこにはアメリカが日本に対してこれから行おうとしている情報が記載されていました。

アメリカが日本に対して条約の締結を求めるために日本を訪れようとしていることはもちろんですが、その他の細かい情報まで記載されています。

例えば、
「目的は通商と貯炭所の確保である。」
「軍艦の隻数だけでなく、軍艦名まで記されていた。」
「提督がオーリックからペリーに変わった。」
「海軍だけでなく、陸軍と陸用の兵器も準備している。」
「出航は4月下旬以降だろう。」
などです。

かなり細かい情報まで幕府は把握していたことが分かります。

その当時の老中の首座阿部正弘は、それを呼んだ後に譜代大名にもこれを伝えたといいます。
もちろん、幕府の結論としては「通商条約は結ぶべきではない」ということになります。

幕府は半信半疑だった!?

ペリー来航の情報は入ってきていましたが、幕府は半信半疑であったかもしれません。
以前にイギリス艦隊の来航もオランダより伝わったことがあったのですが、その時はイギリス船は来なかったのです。

半信半疑な中、対策をしないわけにはいきません。
幕府は三浦半島の防備を強化するために兵を増やし時を待ちます。
この防備の強化は「とりあえずの強化」というレベルです。
そして、実際に来航するであろう浦賀の与力などには伝えられていませんでした。
100%信じていたのならば、違った対応をしていたことでしょう。

実際にペリーが来航したときは、
「来るかもとは思っていたが、本当に来たか。」
と思ったことでしょう。

今のような情報溢れる社会ではなく、文書と人伝えで情報が伝わる世の中ではそうなることも仕方ない気もしますね。

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