江戸三大祭の一つである「深川八幡祭り」で有名な富岡八幡宮には、歴史好きには訪れておきたい観光スポットがあります。
それは伊能忠敬の銅像です。
江戸時代の人物で決して派手ではありませんが、歴史の教科書で学び知らない人はいないと言っても過言ではない人物です。

富岡八幡宮を訪れたときには、是非こちらも訪れておきたいところです。
富岡八幡宮の境内で定期的に開催されている骨董市とフリーマーケットも一度は訪ねてみたいですね。

スポンサーリンク

伊能忠敬像

inou

伊能忠敬の功績は、何といっても初めて実測によって日本地図を完成させたということです。
日本全国を自分の足で周って測量した苦労と困難は想像に難くありません。
当時既に55歳であった年齢を考えると、とてつもないことであったことがわかります。

忠敬はとても厳しい人物で規律を重んじていたと言われています。
また特別扱いもせず、息子の秀蔵も最終的には破門となっています。
そんな厳しい忠敬だったからこそ、この全国の測量は可能だったのかもしれません。

伊能忠敬はその測量を始める前に、富岡八幡宮へ参拝に訪れました。
この富岡八幡宮は全国測量への旅の出発点であるのです。
この銅像を訪れる際には、伊能忠敬の覚悟や決心も共に感じたいところですね。

住所:東京都江東区富岡1-20-3(富岡八幡宮 大鳥居付近)
アクセス:門前仲町駅より徒歩5分

伊能忠敬とは

伊能忠敬は現在の千葉県山武郡九十九里町で生まれました。
元々は伊能家ではなかったのですが、後の伊能家へ婿入りすることになります。
伊能家は現在の千葉県香取市佐原で酒造を主に営んでおり、経済的に豊かであったことから村の自治への発言力も持っている家柄でありました。
忠敬は村の自治に奮闘し、ついに36歳の頃には村の名主となりました。
その後起こった天明の飢饉では忠敬は貧民救済のために働き、村を救います。

そして忠敬が49歳の頃に隠居の身になります。
忠敬にとっての「測量」は、まさに第2の人生だったのかもしれません。

50歳からの新たな出発

50歳になり新たな出発をはじめた忠敬は暦(こよみ)に興味を示し、19歳年下の高橋至時から暦学を学びます。
その余りのはまりっぷりに「推歩先生」(推歩=暦学)というあだ名が付けられたほどでした。
そして正確な暦を作るには地球の大きさや、日本各地の経度・緯度を知ることが不可欠だと考えるようになります。

これが全国への測量へと繋がっていくのです。

17年かけて地図を作製

当時55歳の忠敬は、内弟子3人・下男2人を連れて測量の旅に出ます。
この際に参拝に訪れたのが富岡八幡宮です。

忠敬一行は寛政12年(1800年)から文化13年(1816年)まで、17年もかけて全国を測量しました。
そして「大日本沿海輿地全図」を完成させ、今までとは比べられないほど正確な日本地図が完成されたのです。
実は忠敬の生きている間にこの地図は完成されませんでした。
忠敬の死後も地図作製は続き、ようやく地図が完成された後に忠敬の死は公に公表されました。

忠敬が命を振り絞って完成させたのがこの「大日本沿海輿地全図」なのです。
忠敬の墓は忠敬の希望により、19歳年下の師匠である高橋至時の墓の側に建立されています。

スポンサーリンク