初めての日本訪問でペリーは、幕府にフィルモア大統領からの国書を渡しました。
そして、国書の回答を得るために再来日することを幕府に伝えて一度日本を去りました。
ペリーはフィルモア大統領に信頼されており、ある程度自由に行動できていました。
しかし、初めての日本訪問後にフィルモア大統領は選挙に敗れフランクリン・ピアース大統領へ政権は変わってしまったのです。
「もし日本の開国は必要はない」
と新大統領が言えば、ペリーの居場所はなくなってしまうかもしれません。
あせったペリーは開国を実現することで、自分の立場を守ろうとします。
ペリーの強硬な姿勢
幕府はオランダを通じて国書の回答を延期したいと伝えます。
しかし、ペリーはこれを拒否します。
そして、日本の横浜に現れ、兵を上陸までさせます。
かなり強硬な姿勢です。
当時の幕府の姿勢は
「食料や燃料などの供給地として日本を使うことはOKだが、貿易はNG」
というものでした。
ペリーは黒船を停泊させ、兵を上陸させることで
「アメリカには、いつでも日本を占領できる力はあるんだぞ」
ということを示したわけです。
日米和親条約の締結
交渉役は老中の阿部正弘を中心におこなわれました。
交渉はなかなか進みませんでしたが、ようやく日米和親条約として締結したわけです。
条約の内容は
下田・箱館両港へのアメリカ船港
薪水・食料など必需品の補給
下田に領事をおくこと
などでした。
この時点では貿易は認めていませんでしたが、この条約が開国のきっかけとなります。
他の国々も次々と条約を締結
日本ではペリー来航が大きくとりあげられていますが、ロシアのプチャーチンも実はペリーの一ヶ月遅れで長崎に来航しています。
ロシアの皇帝ニコライ一世の国書を幕府に渡しに来たわけです。
プチャーチンはペリーに比べて温厚だったと言われています。
他の要因ももちろん重なっていますが、もしかすると性格が条約がなかなか結べなかった理由の一つにあるかもしれませんね。
アメリカが和親条約を結んだことで、他の列強諸国も条約の締結を求め出します。
幕府は先ほどのロシアを含めイギリス、オランダとも和親条約を結びました。
幕府はいずれも貿易は認めませんでしたが、鎖国の終わりは刻一刻と近づいくるのです。
この時点では、開国へ近づいてはいますが日本が不利な条件はそれほど含まれていません。
その後の通商条約によって、日本は不利な条件は受け入れてしまい、それが幕府を追い込んでいきます。
そして、倒幕、明治維新へとつながっていくのです。