日米和親条約では
「やむを得ない事情のときは、下田に領事をおく」
という内容が含まれていました。
アメリカはこの条件を
「日本はやむを得ないと思わなくても、アメリカが思えばOK」
と解釈します。
そして、下田にハリスを送り込んできました。
交渉というのは難しいものですね。
幕府は、もちろんこれに戸惑います。
ちょうどその頃、安政の大地震で日本は混乱のさなかでした。
幕府はそれを理由にハリスにひとまず帰るように要求しますが、あっさり断れてしまいます。
将軍に会わせろ!と要求
ハリスは下田にとどまり続け
「将軍に会わせろ!」
と要求します。
ペリーも強気でバンバン攻めてきましたが、ハリスはさらに強硬です。
要求に負けた幕府は、ついにハリスを将軍徳川家定に会わせたのでした。
外国人嫌いの天皇は開国はNO!
将軍家定に会ったハリスは、さらにたたみかけます。
老中の堀田正睦に開国を要求するのです。
諸大名は開国に反対していましたが、堀田は開国をしようと朝廷に開国の許しを求めに京都へ行きます。
しかし、外国人嫌いの孝明天皇からは許しをえることはできませんでした。
その後、大老に井伊直弼が就任し幕府の権力を握るようになります。
朝廷に無許可で締結
ハリスはその後も強引に開国を要求します。
そして、
「イギリスやフランスが日本を攻めてくるかもしれない。」
「そのときは間に入ってやるから、条約を締結しろ!」
と迫ってきます。
イギリスとフランスはちょうどその頃、中国との戦争に勝利したところでしたので、現実味のある話ですね。
そして、幕府はハリスの圧力に屈して朝廷の許しをえずに、条約を締結してしまうのです。
これが日米修好通商条約です。
日米修好通商条約は日本にとても不利
条約の内容は、皆さんもご存知の通り日本にとって、とても不利なものでした。
なかでも
「日本に関税自主権がなかったこと」
「アメリカに領事裁判権を認めたこと」
は圧倒的に不利なものでした。
貿易において関税を決められない日本は、その後不平等条約が解消される明治の終わりまで悩まされ続けました。
また治外法権のため、外国人が日本で罪を犯しても、その人を裁くことができなくなりました。
これは怒りを通りこします。
当時の人々が外国人を嫌いになっていくのは、幕府によるこの不利な条約にも原因があったはずです。
日米修好通商条約は倒幕への引き金
こんな日本に不利な条約を結んだ幕府を、幕末の志士たちが黙ってみているわけがありません。
尊皇攘夷論はますます加熱していきます。
「尊皇とは、天皇を敬う」
「攘夷とは、外国を打ち払う」
という意味です。
そして、攘夷を実行することは今の幕府では不可能という考えに当然なってきます。
これが倒幕、明治維新へとつながっていくのです。