日米修好通商条約で、不平等条約を日本は結ばされます。
原因はもちろん幕府にあります。
幕末の志士たちは
「これからの日本を守らないといけない!」
と立ち上がります。
幕府の独断の条約調印に、大名や公家たちも不満をあらわにします。
そして、朝廷と幕府が協力して政治をおこなう公武合体を目指そうとします。
その過程で朝廷が水戸藩に
「公武合体をおこなって、攘夷をしなさい。」
と直接言ったことは、戊午の密勅と呼ばれています。
ですが、幕府は「将来の日本」より「自分達の立場」の方が重要です。
尊皇攘夷論を強く唱える志士たちや、自分達の立場を危うくする大名や公家は幕府にとっては邪魔な存在なわけです。
大老である井伊直弼はこれを許しませんでした。
幕府を脅かすものは徹底的に弾圧
まずは、1858年9月に梅田雲浜を戊午の密勅事件に関与した疑いで逮捕します。
安政の大獄の始まりです。
安政の大獄では、死罪8人、その他自殺などの死者10人を出しました。
その中には、吉田松陰や橋本左内らもいました。
その他にも、戊午の密勅に関わったもの、その味方とおもわれるものも処分されました。
前水戸藩主徳川斉昭、一橋慶喜、左大臣近衛忠熙、右大臣鷹司輔熙、外国奉行岩瀬忠震などが処分されています。
「大名も公家も幕臣も、幕府に逆らおうとするものは例外なく許さない」
という井伊直弼の強い姿勢が見られます。
しかし強行すぎる政治で、平和な世の中が来るわけがありません。
とくに大きな弾圧を受けた水戸藩では怒りがおさまるわけがありません。
幕府をより強固なものへしようとおこなった安政の大獄は、結果的に幕府を絶体絶命の立場へと追い込んでいくのです。
桜田門外の変で井伊直弼が殺害される
1860年3月3日、水戸藩の関鉄之介ら18名により井伊直弼は、桜田門の前で襲撃を受け命を落とします。
桜田門外の変は衝撃的な事件として広まります。
と同時に、
「あれ!?幕府の中心人物がこんなに簡単に殺されるの?」
「幕府って大丈夫!?」
と、幕末の尊皇攘夷の志士たちは思い出します。
ここら辺から少しずつ
「日本を守らないといけない!」
から
「日本を守るのは幕府では無理だ!」
という考え方にシフトしていくわけです。
倒幕への舵がいよいよ切られていくのです。