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PL学園時代の桑田さんのKKコンビから、西武・巨人と清原和博さんは常に野球界のど真ん中を歩いてきました。
覚せい剤逮捕の事実は残念でなりませんが、清原さんの輝かしい野球人生は色あせるものではありません。
清原さんの伝説と逸話をここでは紹介したいと思います。
巨人ファンの少年時代
清原さん一家は阪神ファンの父親を除くと巨人ファンで、その影響からか清原さんも巨人ファンとして幼少期を過ごします。
そして、野球を始めるわけですが小学校4年生の時点で、6年生も含めたチームでレギュラーとなります。
6年生時にはエースで4番となり、まさにチームの大黒柱となります。
中学時代も関西で優勝するなど活躍は素晴らしく、中学生の時点で既にボールをスタンドまで飛ばしていたそうです。
そして高校進学前には約30校から入部の誘いが来るほどまでの選手となっていました。
入学候補には、PL学園の他に天理高校があったそうです。
清原さんの母親が奈良県出身だったのが、天理高校が候補に入った理由だと言われています。
ただ100人の部員を抱え1年生時には球拾いしかできない天理高校と、部員が少なく1年生から練習ができるPL学園の環境の違いを考えて、PL学園に入学を決定したそうです。
PL学園時代
PL学園に入ると、中学時代まではピッチャーをしていた清原さんですが打者一本へと絞ります。
桑田さんの素晴らしいピッチングを見てピッチャーを断念したと、清原さんは後に語っています。
入学当初から清原さんのバッティングの飛距離は凄まじいものでした。
既に強豪校として知られていたPL学園ですが、清原さんは規格外です。
練習場のネットを軽々と超えホームランを放つため、清原さん専用のネットが足されたほどでした。
伝説のKKコンビ
清原さんは1年生からPL学園の4番として活躍します。
同じく1年生でエースとなった桑田さんと共に、KKコンビとして3年間PL学園を引っ張っていきます。
高校生は甲子園に出るチャンスは5回あります。
そのすべて(5回)で甲子園に出場し、1年夏は優勝、2年の春・夏は共に準優勝、3年の春はベスト4、夏は優勝という信じられない成績を収めます。
このような強豪校は恐らく二度と出てくないのではないでしょうか。
3年夏の決勝戦でのアナウンサーの「甲子園は清原のためにあるのか」の実況はあまりにも有名です。
3年夏の甲子園だけで、清原さんは5本のホームランを打ちました。
高校通算で64本のホームランを打ちましたが、中でも甲子園での13本のホームランは圧巻です。
もちろん歴代1位ですが、2位の桑田真澄さん・元木 大介さんのホームランは6本です。
まさに次元が違います。
運命のKKドラフト事件
プロ野球界からも大注目を集めたKKコンビですが、ここで運命のドラフト会議が起こります。
王貞治さんを尊敬し巨人入りを熱望していた清原さんですが、巨人から指名されませんでした。
巨人は清原さんではなく、早稲田大学進学を希望していたとされる桑田さんを1位指名します。
清原さんは、6球団がドラフト1位で競合した結果、抽選で西武に決まりました。
巨人・阪神以外の指名の場合は社会人野球(日本生命)にいくと言われていましたが、巨人を見返すためか入団を決意します。
ドラフト会議直後の会見で、悔しさからか悲しみからか涙を流して会見したのは有名なシーンです。
西武時代
鮮烈なプロ野球デビュー1年目
清原さんは1年目から大活躍します。
5月末には既に5番打者としてスタメンに定着し、オールスターファン投票では1位に選ばれます。
そしてオールスターでホームランも放ち第2戦ではMVPに選ばれました。
「お祭り男」の称号は、既に1年目から始まっていました。
そしてシーズン終盤では4番も任されるようになります。
1年目のシーズンは打率.304・31本塁打・78打点を残し、これは高卒新人記録をすべて塗り替える記録でした。
チームもリーグ優勝・日本一を果たし、清原さん自身もシリーズ首位打者・最多安打の記録でシリーズ優秀選手賞を獲得しました。
桑田を破った涙の2年目
2年目のシーズンは成績こそ落としましたが主軸として活躍し、またもやリーグ優勝・日本一に貢献しました。
日本シリーズの相手は、ドラフトの因縁の相手・巨人でした。
日本シリーズで優勝が決定する直前に、ファーストの守備位置で泣き崩れていた清原さんの姿は今でもよくテレビで放送される名場面です。
涙のあまり試合が一時中断するほどでした。
西部の黄金時代を築く
その後も清原さんようする西武は勝ち続け、この時代は西武のまさに黄金時代です。
清原さんの在籍11年間で、8回のリーグ優勝と6回の日本一になりました。
秋山・清原・デストラーデの最強クリーンアップはもちろん、石毛・辻などスキのない野手陣でした。
また投手陣も、渡辺・工藤・郭をはじめ充実した投手陣でした。
安定した成績を残していた清原さんですが、実は1年目を除けば規定打席で3割を達成したのは、1年目と5年目だけでした。
またタイトルを獲得することもありませんでした。
そしてその後FA宣言をし、長嶋監督率いる巨人軍へ入団することになります。
巨人時代
巨人時代の清原さんは苦悩のプロ野球人生だったかもしれません。
成績を大きく落としたことはありませんでしたが、注目の高さからバッシングも大きくなります。
移籍1年目は応援団の「応援ボイコット」も起こりました。
打たないシーンが西武時代と異なり大きく取り上げられただけで、移籍1~2年目のシーズンは実際に西武時代と同じくらいの成績は収めています。
西武時代はチームのまさに中心選手でしたが、巨人には若き大砲松井秀喜さんが活躍していました。
生え抜きの大スター松井秀喜さんと比べられることは、清原さんにとって喜ばしいことではなかったでしょう。
またケガに悩まされるようになり、移籍3年目からは試合を欠場しがちになります。
ケガのない健康的なシーズンは活躍しましたが、巨人に在籍した9年間で100試合以上出場したシーズンはわずか4年間で、多くのシーズンはケガとの戦いでした。
巨人に9年間在籍したのち、清原さんは事実上の戦力外通告を受けます。
そしてオリックスへ移籍し2年間プレーしたのちに現役を引退しました。
清原さんのヘルメットは野村克也さんが現役時代使っていたものでした。
西武入団の1年目に球団にあったものを譲り受け、球団が変わっても塗りなおすことで23年間同じヘルメットを使っていたそうです。
西武の大先輩である東尾修さんは、西武の黄金時代を築いた秋山幸二さん・工藤公康さんが野球殿堂入りしたことで、「清原も野球殿堂入りしてくれたら最高」だと語っていました。
覚せい剤の逮捕を考えると、これは現実的に厳しいかもしれませんね。
多くの野球ファンが清原さんの復活を望んでいることだと思います。