キース・ジャレット(Keith Jarrett、1945年5月8日~)は、音楽のジャンルの垣根を超えてクラシックなどを取り入れたジャズピアニストとして知られています。
また日本との関係が深いミュージシャンでもあり、1974年の初来日を皮切りにこれまでに150回以上の公演を日本で重ね続けています。
神童だったキース・ジャレット
キース・ジャレットはペンシルベニア州アレンタウンで1945年に生まれました。
アメリカはご存知の通り多民族国家で、彼の父親はハンガリーの血をもっており、母親はフランスやスコットランドの血を継いでいます。
彼は3歳に頃に既にピアノを勉強し始め、多くの若くから始めた音楽家がそうであるように、彼も絶対音感を身につけました。
そして5歳ではテレビでピアノを披露し、7歳の頃にはリサイタルを開きました。
もちろんその頃の音楽はジャズではなく、バッハ・モーツァルト・ベートーヴェンと言ったクラシック音楽でした。
10代でジャズに興味を持ち始める
そんなキース・ジャレットがジャズに興味を持ち始めたのは10代になってからでした。
急速にジャズにはまっていった彼ですが、クラシック音楽の才能も相当のものでした。
クラシック音楽の作曲の勉強のためにパリへ来ないかと、フランスの偉大な音楽教育者であるナディア・ブーランジェ(Nadia Boulanger)に誘われたそうです。
母親はこの誘いにとても喜んだそうですが、キースのジャズへの思いは高まっておりパリへの留学は断ることになりました。
卒業→ボストン→ニューヨーク
ハイスクールを卒業したキースはアレンタウンからボストンへ移り、バークリー音楽大学へ進みます。
そして1年後には早くもニューヨークへ移り、ヴィレッジヴァンガードでピアノを弾き始めます。
そこで初めに雇ってくれたのはアート・ブレイキーのジャズ・メッセンジャーでした。
ここでのアルバム「バターコーン・レディ」が彼のデビューアルバムとなりました。
マイルス・デイヴィスとの出会い
多くのミュージシャンがそうだったように、キースにとってもマイルス・デイヴィスとの出会いは大きなものとなりました。
1970年にマイルス・グループに加入し、これまで余り触れてこなかったエレクトリックサウンドを吸収します。
ジャズピアニストの大御所であるチック・コリアと共にマイルスのもとでプレイし、キースは主にオルガンを演奏しました。
チック・コリアが抜けてからもキースはしばらくの間マイルスと一緒に演奏しました。
完全即興演奏で衝撃を与える
マイルスグループにいた後期頃から、キースはソロ活動も始めます。
いくつかアルバムをリリースしたりスタンダードな演奏もおこなっていましたが、1972年ころから完全即興によるコンサートも開くようになりました。
その中でも1975年にドイツ・ケルンのオペラ劇場で行われた模様を収録した完全即興によるコンサート「ザ・ケルン・コンサート(The Köln Concert)」は、ジャズ界に大きな衝撃を与えました。
まさにクラシックとジャズの垣根を超えた作品で、傑作であると同時に人気も高い作品です。
完全即興なため正式な曲のタイトルもありません。
またジャズの即興演奏と言うよりは、クラシックの即興演奏の要素も強いため音楽的にも衝撃の高い作品です。
その他にもキースはいくつかバンドを組み幅広い演奏活動を今日までおこなっています。
中でも豪華メンバーでキースがスタンダードなナンバーを演奏した「スタンダーズ」は、意外性も加わって大きな反響を呼びました。その他、キースはクラシック音楽にも立ち返り、バッハ・ヘンデルなどのバロック音楽やモーツァルトをはじめとしてクラシック音楽も演奏しています。
まさにキース・ジャレットはジャンルのないピアニストだと言えるかもしれません。