Contents
~西郷隆盛の基本情報~
生年:1828年1月23日
没年:1877年9月24日
享年:49歳
藩:薩摩藩
藩士の最下層の身分として薩摩に生まれる
隆盛は1828年1月23日、薩摩国の御勘定方小頭の西郷九郎隆盛の第1子として生まれました。
西郷家は藩士としては最下層の身分でした。
隆盛が暮らしたこの下級武士の居住区からは、西郷隆盛の他に大久保利通をはじめ明治維新に係わった人物たちも育っています。
隆盛はこの居住区の「明治維新世代」の中では、年上のほうでした。
この居住区のころから、その人柄で多くの人たちに慕われていたそうです。
島津斉彬の側近として頭角を現す。
隆盛が頭角を現してくるのは、1851年2月島津斉興が隠居し島津斉彬が薩摩藩主になってからです。
島津斉彬は優れた人物であれば身分を問わなかったのです。
隆盛は島津斉彬の側近に取り立てられ、京都や江戸で活動をしました。
また、この頃に碩学・藤田東湖や橋本左内(越前藩士)らに出会い、国事について話す機会を得ています。
隆盛の将来の日本像に対する考え方も、この時の経験が活かされていることでしょう。
島津斉彬は、篤姫を通じて徳川慶喜を次期(第14代)将軍にしようと考えます。
その計画は、慶喜を将軍にすることで、幕府を中心とした中央集権体制を作りることでした。
そして、開国し富国強兵をおこなって諸外国と戦える力を蓄えるというものでした。
※篤姫は第13代将軍徳川家定の妻で斉彬の養女
当時の藩主としては、先見の明がある「いい意味で珍しい」藩主ですね。
その橋渡しの役割を果たすべく、隆盛は斉彬の手足となって働いたのです。
斉彬の側近としての働きぶりで、隆盛は周りからの信頼をさらに獲得します。
斉彬の死で事態は急変
彦根藩主・井伊直弼が大老となると、紀州藩主徳川家茂が次の将軍に決定します。
そして、一橋派への弾圧し強権を振るい始めます。
そして丁度その頃、島津斉彬が急逝します。
隆盛を「最も高く評価している人物」がいなくなりました。
隆盛の周りの状況が、一気に変わるわけです。
隆盛は、京都で斉彬の訃報を聞きいて殉死しようとしたそうです。
斉彬との関係が深かったことが、ここからも想像できますね。
斉彬の死後は島津久光が薩摩藩の実験を握りました。
しかし、隆盛と久光は馬が合いません。
隆盛は徳之島に「島流し」されてしまうのです。
隆盛は牢屋の中に閉じ込められた状態で1年6ケ月過ごしました。
許しが下りて鹿児島に戻ったときは、足が立たなかったとまで言われています。
また、這いずりながら斉彬の墓参をしたと言います。
「島流し」後も西郷隆盛の人望は健在
佐幕派であった薩摩藩ですが、次第に倒幕へと傾いていきます。
そして、大久保利通や小松帯刀らが藩の大きな役割を担うようになります。
この時の薩摩藩は、まさに「ピンチ」でした。
佐幕派からも攘夷派からも、さらには攘夷派志士からも、世評からも評判が悪かったのです。
悪評の原因は、薩摩が外国と密貿易をしていることでした。
攘夷派からは「外国と仲良くするな!」
世間からは「密貿易のせいで物価が高騰する!」
と思われていたのです。
隆盛を慕っていた彼らは、
「この苦難を乗り切るには西郷隆盛が必要だ!」
と、隆盛を許すよう説きます。
久光は藩の状況を考え、しぶしぶOKを出します。
西郷隆盛の人望は、彼の島流し後も変わらなかったのです。
犬猿の仲の長州と薩長同盟を結ぶ
第1次長州征伐後、薩摩は倒幕派へと変わります。
幕府の限界を薩摩も感じていたわけです。
しかし、倒幕派のNo1は長州藩です。
関ヶ原の戦いからの恨み合いに加え、長州を禁門の変で京都から追い払ったのも薩摩です。
倒幕にはお互いの力が必要だと感じていても、簡単に手は結べません。
坂本龍馬の仲介によって成立したのが薩長同盟ですが、薩長同盟は西郷隆盛なしでは成立しなかったかもしれません。
隆盛のリーダーシップの賜物と言えます。
その後、第二次長州征伐を迎え撃った長州は幕府を撃退します。
そして、大政奉還、倒幕へと時代は進んでいくのです。
廃藩置県は西郷隆盛がいたからこそ成立した
倒幕後、政治は幕府から朝廷へ移りました。
しかし、藩の影響力が大きいため中央集権化がなかなかできずにいました。
版籍奉還後も封建的藩体制は実質的に続いていたのです。
外国と対等になるためには日本が一つになることが必要です。
それには封建制度を廃止し、中央集権化することが不可欠でした。
その体制を変えるために、藩にかわって県を置いたのです。
そして、それまでの藩知事は東京に移住させ、県には政府から別の知事を送りました。
この廃藩置県は今までの日本の仕組みをがらっと変える、かなり強硬的な策でした。
西郷隆盛が廃藩置県断行の口火を切ったと言われています。
隆盛は今日の日本の土台を作ってくれたのです。
西南戦争で命を落とす
征韓論で敗れた隆盛は、鹿児島へと帰ります。
その頃、廃刀令も重なり、士族が新政府に不満を持ちはじめます。
彼ら士族たちは、西郷隆盛を頼って鹿児島に集結します。
そして、西南戦争が始まるのです。
西南戦争は、部下たちの断行だったと言われています。
リーダーであった隆盛は、「士族を必要としない世の中」を作った責任をとったのかもしれません。
新政府軍の武力の前になすすべもなく敗れ、隆盛も自刃しました。
人望が厚く、リーダーとして最初から最後まで必要とされたのが、西郷隆盛だったのです。