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第14代将軍をめぐる「南紀派」(徳川慶福派)と「一橋派」(一橋慶喜派)の争いは、南紀派の井伊直弼が大老に就任したことで南紀派が勝利しました。
しかし、まだまだ食い下がりたい「一橋派」は井伊直弼の弱みにつけこみます。
それは、日米修好通商条約を天皇の許可なく井伊直弼が調印したことです。
日米修好通商条約は日本にとって「不平等条約」でしたね。
一橋慶喜と福井藩主・松平慶永、
水戸藩主・徳川慶篤、前水戸藩主・徳川斉昭、尾張藩主・徳川義恕は
「天皇の許可をえずに、調印したのはまずい!」
と江戸城に向かい井伊直弼へ意見します。
井伊直弼はこれを
「今日は江戸城に来ていい日ではありません。」
「決まられた日以外で江戸城に来ることは許しません。」
と彼ら全員に謹慎などの処分を下します。
朝廷と水戸藩は井伊直弼に不満
とても納得できる政治ではありませんね。
まさに独裁政治です。
尊王攘夷が盛んであった水戸藩の徳川斉昭らの処分は、尊王攘夷派の不満を募らせました。
また勝手に日米修好通商条約を結んだ幕府を、朝廷も良く思うわけがありません。
当時の公家の多くは「外国人が大嫌い」でした。
孝明天皇は特に異人嫌いで有名でした。
戊午の密勅
そういう事情があり、孝明天皇が水戸藩に勅諚を伝達します。
これを「戊午の密勅」と言います。
この時の干支がうま年だったので「戊午」、手続きの上で必要な関白九条尚忠の許可のない勅諚だったことから「密勅」と呼ばれています。
内容は
「勝手に日米修好通商条約を結ぶなんてけしからん!理由をちゃんと説明しなさい。」
「幕府だけでなく朝廷とも力を合わせて攘夷をしなさい。」
「これらのことを藩にも伝えなさい。」
というものでした。
幕府を通さずに勅諚が伝えられることは異例のことでした。
「これは幕府の権力の失墜につながる恐れがある」
「水戸藩は幕府に反抗しているのではないか!?」
と感じた井伊直弼は過敏に反応します。
これが「安政の大獄」を生み出すのです。