明治維新の立役者である大久保利通は明治11年5月14日に紀尾井町で暗殺されました。
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犯人は六人の旧加賀藩の石川県士族たちで、大久保の乗る馬車を襲撃しました。
主犯格は島田一郎と長連豪でした。
大久保を暗殺した最後の一撃は喉を貫通していたと言われています。

主犯格の島田は犯行当日に犯行声明まで新聞社に送っています。
そこには、殺さなければいけないターゲットとして木戸孝允、大久保利通、岩倉具視の名前が挙げられていました。
その他にも許すべからざる者として大隈重信、伊藤博文、黒田清隆、川路利良の名前が挙げられていました。

新政府の改革を強く避難し、そのメンバー達を罰しようとしたのです。
ちなみに大久保を切った刀は、警視庁に保管されており今も残されています。

大久保利通はなぜ殺さなければならなかったのでしょうか。
そして、何が犯人たちをそうさせたのでしょうか。

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中央集権国家を目指す新政府

倒幕後に誕生した明治政府は天皇を中心とした新しい体制でした。
中心となったのは、倒幕に貢献した薩摩、長州、土佐、肥前の藩士達でした。
その中でも、薩長はさらに特別でした。
薩摩の大久保利通と長州の木戸孝允が新政府の中心となったいきます。

新政府が目指したものは西洋と同等に戦える近代国家に日本を変えていくことでした。
そのためには、封建社会から中央集権国家への移行が必要でした。

明治維新後も260余りの藩が残っており、各藩が年貢を取り立て政治もおこなっていました。
この藩の力をなくし、ひとつに支配をまとめることが中央集権国家へのポイントでした。

版籍奉還

そこで大久保利通らがまずおこなったのが、版籍奉還です。

藩主に対して領地と人々を朝廷に変換するように命じたのです。
混乱を避けるためにまず薩摩、長州、土佐、肥前の四藩だけにまずは版籍奉還をさせました。

版籍奉還後、大久保利通は助っ人として西郷隆盛を新政府に呼びます。
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そして、版籍奉還後のさらなる一手に出ます。

版籍奉還後も藩主の名が藩知事と変わっただけで、実態は以前とあまり変わっていなかったからです。

しかし、藩を完全に無くせば多くの氏族達が職を失うため、大きな反発が起こることは十分に予想されたことでした。

廃藩置県

大久保は十分に根回しをした上で大改革にのぞみます。

当時、多くの藩は財政が苦しい状況にありました。
そこで大久保は藩の借金を新政府が肩代わりすることにします。

また西郷隆盛に一万の軍の新政府軍を編成させ、反乱が起きないように圧力をかけました。
人望の厚い西郷隆盛を利用したともとれますね。

そして藩知事を皇居に集め天皇の名の下に廃藩置県を命じたのです。

261藩を3府72県に再編して、中央からあらたな知事を派遣しました。
これにより、政府が直接支配できるようになり中央集権国家が実現したのです。

しかし廃刀令や徴兵制により士族の特権が奪われていくと、不平士族が現れてきます。
そこには、大久保利通を暗殺した石川県士族もいました。

新政府内の分裂〜征韓論〜

そして新政府内もほころびが出てきます。
一年半の間外国を旅して文明を学んできた外遊組と、その間政府を守ってきた留守政府組の対立です。

外遊組

大久保利通
木戸孝允
岩倉具視

留守政府組

西郷隆盛
板垣退助
江藤新平

当時、新政府には朝鮮との外交問題がありました。
今だに鎖国を続けている朝鮮に対して武力行使で開国を求める征韓論を留守政府組が唱えるようになっていたのです。

一方で、大久保利通らは国内で力を蓄えることが先決だと考えていました。

征韓論は結果的に通らず、大久保利通らの勝ちとなります。
西郷隆盛、板垣退助、江藤新平はこれを不服として政府を離脱します。

西郷隆盛は征韓論により不平士族を救済したかったのではとも考えられています。

その後、大久保利通は内務省を作り自らが内務卿となります。
そして周りを大隈重信や伊藤博文などの自分の味方で固め、大久保独裁の専制体制を作り上げていきます。

大久保は殖産興業を進めます。
富岡製糸場もこの頃のものですね。

佐賀の乱

そして大久保のこのような強硬な姿勢に、士族の不満が爆発します。

まず江藤新平を中心とした佐賀県士族による佐賀の乱が起きます。
県庁を占拠した事件です。
大久保は自らが軍を連れて乗り込み鎮圧します。
江藤新平は斬新された上に、さらし首となりました。

大久保は江藤のさらし首の写真を内務省の応接室に飾っていたとも言われています。
また、大久保に意見できる者は、政府内にはほとんどいなかったとも言われています。

この独裁政治に不満はさらに高まります。

続いて萩の乱もおこります。

西南戦争の勃発

そしてついに鹿児島士族にかつがれ西郷隆盛が反乱を起こしました。

大久保は討伐兵を出す際に
出兵は止むを得ないが、西郷とは会えばすぐに分かり合えるはずだ
と言ったそうです。

また西郷が大義名分もなしに反乱を起こすはずがないと言い、西郷が関わっていることを知ると涙を流したそうです。

西南戦争は8ヶ月続き、西郷隆盛は新政府軍に追い詰められ自決します。
これ以降、武力による反乱は収束していきます。

大久保利通の暗殺

しかし、ここから大久保利通の歯車は狂っていくのです。

西南戦争の際には、西郷を慕う士族たちが鹿児島以外からも集まりました。

大久保利通の暗殺犯である島田一郎や長連豪らの石川県士族たちも挙兵計画をねっていました。
島田は廃藩置県後に失業し、辛い目にあっていました。
長は征韓論の支持者でもありました。
彼らは県内の反対で、挙兵は断念しました。
そのやり場のない不満と怒りは溜まる一方です。

西郷隆盛自決を知った島田らは、挙兵の難しさを知ります。
そして、少人数でもできる暗殺へと計画を変えていくのです。

そして、それが大久保利通の暗殺へと繋がります。
島田や長ら石川県士族に大久保利通は暗殺されてしまうのです。

島田や長が西郷隆盛を慕っていたことも、ターゲットが大久保利通になった大きな理由の一つでしょう。

また木戸孝允は大久保利通暗殺時には既に病で命を落としていました。
大久保利通が狙われたのは必然だったのかもしれません。

盟友で幼馴染だった西郷隆盛を死に追いやった大久保利通ですが、そのことは実は自分の寿命を縮めることになっていたのです。

西南戦争がなければ、西郷隆盛が命を落としていなければ、大久保利通はもしかすると命を落としてはいなかったのかもしれませんね。

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