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今回は幕末を語るうえにおいて欠かせない人物である「桂小五郎(木戸孝允)」を取り上げてみたいと思います。
幕末では天誅と呼ばれる「テロ」が横行し、多くの志士たちが命を落としました。
そんな中、変装の名人であり「逃げの小五郎」と呼ばれた桂小五郎(木戸孝允)は命を落とすことなく幕末の世を渡り歩いていきます。
桂小五郎(木戸孝允)の基本情報
生年:1833年8月11日
没年:1877年5月26日
享年:43歳
藩:長州藩
2015年の大河ドラマ「花燃ゆ」では、東山紀之さんが演じていますね。
維新の三傑
桂小五郎と薩摩藩の西郷隆盛、大久保利通の3人は「維新の三傑」と呼ばれています。
「彼がいたからこそ今日の日本がある」と言っても過言ではないでしょう。
吉田松陰率いる松下村塾の志士たちに見られるように、長州藩士は熱い人物が多くいました。
そのため、長州藩の幕末の志士の多くは明治維新の前に命を落としています。
そんな中、「逃げの小五郎」として暗殺者からも生き延び、彼は長州の倒幕のリーダーとなっていくのです。
「悪童」かつ「秀才」な少年
彼は長州藩医・和田昌景の長男として生まれました。
その後7歳で桂家の婿養子となり、桂の姓を名乗るようになります。
彼は小さい頃は病弱でしたが、一方で悪童でもありました。
いたずらで船を転覆させて、怒った船頭に櫂で頭を叩かれてしまい傷を作っています。
このときの、額の三日月形の傷跡は一生消えなかったそうです。
しかし、彼は悪童だけではなく秀才でもありました。
藩主・毛利敬親による親試で2度ほど褒賞を受け、長州藩の若きホープとして注目され始めます。
また、吉田松陰から山鹿流兵学も学んでいます。
彼は松下村塾でも別格扱いだったと言われています。
松陰の死後、松下村塾の志士たちが彼を頼ったのもそのことが理由の一つにあるでしょう。
「人を一度も殺したことがない」剣豪
彼は剣術でも一流でした。
1852年、剣術修行のために江戸に旅立ちます。
江戸三大道場の一つ、練兵館(神道無念流)に入門し免許皆伝を得て、たった入門1年で塾頭となりました。
174cmあったと伝えられる大柄な小五郎が上段に構えると、その迫力は凄まじかったそうです。
彼は藩命で帰国するまでの5年間、練兵館の塾頭をまかされました。
剣豪の名を天下に轟かせた桂小五郎ですが、実は生涯で一度も人を殺したことはありません。
まさに「逃げの小五郎」です。
幕末は混乱の時代です。
いくら強くてもまともに戦っては、命がいくつあっても足りなかったのでしょう。
熱い理想論者ではなく、冷静で現実的な人物だったことも感じられますね。
最先端の知識、技術を学ぶ
小五郎は現実主義者でしたが、行動は積極的でした。
①浦賀へペリーの艦隊を見に行ったり
②幕府代官の江川英龍から西洋兵学、小銃術、砲台築造術を学んだり
しました。
他にも造船術や英語も学んでいます。
桂小五郎は慎重な倒幕派
彼は倒幕派でしたが常に慎重でした。
久坂玄瑞率いる長州軍が下関で関門海峡にいる外国艦船に攘夷戦争を始めたことも、彼は反対をしています。
「負ける戦はしない」、まさに小五郎らしい考え方です。
藩のリーダー「逃げの小五郎」
彼はその攘夷戦争の後(1863年5月)に、藩命により江戸から京都に移ります。
そこで藩の中枢になって京の街を積極的に行動します。
長州藩は倒幕派の筆頭。
そのリーダー的存在の小五郎は常に命を狙われる存在でした。
幕府側の新撰組や京都所司代にとっては、まさに天敵です。
常に危険と隣り合わせの状態が、彼を「逃げの小五郎」にしたのでしょう。
乞食や町人へと次々へと変装し、命を守ってきたのです。
新撰組の襲撃にあった「池田屋事件」でも、うまく逃げています。
「禁門の変(蛤御門の変)」でも、幕府軍からうまく逃げています。
こんなに辛抱強く「逃げに逃げる」幕末の志士はそうはいません。
その後、幾松(愛人)の助けもあり、小五郎は京で潜伏生活を続けます。
いよいよ出番がやってくる!
そして、「逃げに逃げて」「待ちに待った」小五郎の出番がついにやってきます。
第一次長州征討で倒幕の力を失った長州は、親幕府派が力を握ります。
そして、親幕府派は正義派(倒幕派)を徹底的に粛清し始めます。
しかし、高杉晋作率いる正義派軍部が軍事クーデターに成功し政治の権力が再び正義派へ移るのです。
小五郎は高杉晋作・大村益次郎たちによって、長州藩の統率者として迎えられます。
再び表舞台に立った小五郎は「藩政改革」「軍事改革」をし、長州を強くしていきます。
そして、彼は藩の代表として「薩長同盟」を成立させます。
力をつけた長州藩は「第二次長州征討」で幕府軍に見事に勝利するのです。
※彼はこの頃から「木戸孝允」と名乗りだします。
ついに倒幕を成し遂げたのです。
西南戦争の最中での死
倒幕後は、彼は明治新政府のリーダーとして活躍しました。
そして1877年2月に西南戦争がはじまると、小五郎は西郷軍征討を自ら希望します。
しかし、彼はその時は重病を抱えており、「西郷もいいかげんにしないか」という言葉を残しこの世を去りました。