幕末 薩摩藩はイギリス人殺害をきっかけに、イギリスと親密になった!?〜生麦事件、薩英戦争を通して〜 1862年、島津久光は幕政改革を訴えるために、藩兵を率いて江戸へ行きます。 久光は軍事力を見せつけることで幕府を脅し、一橋慶喜を将軍後見職に松平慶永を政事総裁職にすることに成功します。 幕府は、外様大名である薩摩藩の言うことを聞かざるをえなかったのです。 幕府の権力は少しずつ落ちてきたのは、目に見えて明らかになってきま... 2015年8月18日
幕末 土佐勤王党がいれば、明治維新で土佐藩はもっと活躍していた!? 尊皇攘夷論と積極的な行動で倒幕をリードしていったのは長州藩ですが、土佐藩も忘れてはいけない藩の一つです。 黒船来航後、土佐藩の中でも尊皇攘夷論は盛り上がります。 その中で、頭角を現してきたのが武市半平太(武市瑞山)です。 武市は江戸へ留学し三代道場の一つである士学館に入門し免許皆伝、さらには塾頭となります。 江戸には諸... 2015年8月17日
幕末 超過激な"安政の大獄"で、自分の首を絞めた井伊直弼 日米修好通商条約で、不平等条約を日本は結ばされます。 原因はもちろん幕府にあります。 幕末の志士たちは 「これからの日本を守らないといけない!」 と立ち上がります。 幕府の独断の条約調印に、大名や公家たちも不満をあらわにします。 そして、朝廷と幕府が協力して政治をおこなう公武合体を目指そうとします。 その過程で朝廷が水... 2015年8月16日
幕末 ペリーより恐い!?ハリスに負けて日米修好通商条約 日米和親条約では 「やむを得ない事情のときは、下田に領事をおく」 という内容が含まれていました。 アメリカはこの条件を 「日本はやむを得ないと思わなくても、アメリカが思えばOK」 と解釈します。 そして、下田にハリスを送り込んできました。 交渉というのは難しいものですね。 幕府は、もちろんこれに戸惑います。 ちょうどそ... 2015年8月15日
幕末 日米和親条約はペリーもギリギリの勝負だった!? 初めての日本訪問でペリーは、幕府にフィルモア大統領からの国書を渡しました。 そして、国書の回答を得るために再来日することを幕府に伝えて一度日本を去りました。 ペリーはフィルモア大統領に信頼されており、ある程度自由に行動できていました。 しかし、初めての日本訪問後にフィルモア大統領は選挙に敗れフランクリン・ピアース大統領... 2015年8月14日
幕末 西郷隆盛~誰からも慕われる明治維新の精神的支柱~ ~西郷隆盛の基本情報~ 生年:1828年1月23日 没年:1877年9月24日 享年:49歳 藩:薩摩藩 藩士の最下層の身分として薩摩に生まれる 隆盛は1828年1月23日、薩摩国の御勘定方小頭の西郷九郎隆盛の第1子として生まれました。 西郷家は藩士としては最下層の身分でした。 隆盛が暮らしたこの下級武士の居住区からは... 2015年8月3日
幕末 ペリーは日本を脅して無理やり開国させた!? 1853年にペリー率いるアメリカ軍艦が浦賀に来航します。フィルモア大統領の国書を幕府に渡すためにやってきたのです。 当時、幕府は鎖国をしていました。 外国との貿易は長崎でしかおこなっていませんでしたので、長崎に行くようにペリーに指示します。 ペリーは拒否をして浦賀に居続けます。 何度言っても言うことを聞きません。 交渉... 2015年8月2日
幕末 幕末はなぜ訪れたのか? 欧米諸国は産業革命以降、急速に文明が発達します。 資本主義も誕生し、競争もますます激しくなりました。 その結果、欧米諸国の自国の市場は飽和状態になってきました。 その結果、まだ未開の国の市場を開こうとしました。 その中でも最も積極的だったのがイギリスです。 インドの植民地化もそうですが、皆さんもよくご存知のアヘン戦争は... 2015年7月31日
幕末 新撰組に局中法度は存在したのか!? 新撰組を題材にしたドラマや映画には、必ずといっていい程局中法度が登場します。 武士道に背いてはいけない 脱走をしてはいけない 金策を勝手にしてはいけない 訴訟を勝手にしてはいけない 私事で刀を抜いてはいけない これに背いたものは切腹を申し付ける 三谷幸喜の描いた大河ドラマにおいても、局中法度に背いて切腹をするシーンが見... 2015年7月30日
幕末 幕末の「最強剣士」は誰だ!? 戦いにおいて個人が活躍したのは、江戸時代までだと言われています。 明治期に入ると、個人の勝負ではなく文明の勝負へと変わってきました。 戦いと言うよりは戦争というべきかもしれません。 今回はその個人が輝いた最後の時代である幕末の「最強剣士」を考察してみたいと思います。 道場部門では「幕末の三剣士」がトップか 幕末の動乱期... 2015年7月15日